「教えて!教養の入り口」実行委員会

あのセンパイはどんな本を読んできたのか?

教えて!センパイ。100年学び続けるための動機はどこに?

※本ブログでは、5/11(木)開催イベント教えて!教養の入り口〜あのセンパイはどんな本を読んできたのか?〜に関連するコラムを不定期連載していきます。



 すべての人は「教養」をもつべきである、と言われる。

例えば文部科学省中央教育審議会(2002年)の資料では「人には,その成長段階ごとに身に付けなければならない教養がある。」とされている。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/020203/020203a.htm) 「教養」をもっている人は、物質的にはともかく精神的には豊かであるとされる。また人から尊敬を集めるとされる。

 しかし一体、「教養」とはなんだろうか。これは繰り返し問われている問いであり、すでの多くの知識人から様々な回答が提出されている。通俗的には、単に知識を持っているという意味で使われることもあるが、多くの論者がそれでは不十分であるとしている。また、大学の教養課程というときの「教養」は、専門分野を修める前に身に付けておくべきとされる学問全般の知識(英語でいうとリベラルアーツ)というもので、ここで問われている「教養」よりもずっと狭い意味のものであるようだ。

では「教養」とはどのようなものであると、最近の知識人は定めているのだろうか。ここでは書店で手に入りやすい、2冊の文庫本の回答を紹介しよう。

自分に対して則(のり)を課す

 科学史家・科学哲学者の村上陽一郎は、『あらためて教養とは』(新潮文庫 2009年)において、教養の決定的に大きな要素を、「揺るがない自分を造り上げる」「自分に対して則(のり)を課し、その則の下で行動できるだけの力をつける」ということを可能にするものであるとし、知識や経験がなくとも持つことのできる、この意味での教養の重要性を説いている。  村上は、この教養観を主に「倫理的な、人間としての振舞い方の領域」に適用させて、電車の中でマンガを読んだり化粧をしたりするのは慎むべきである、といった具体的な公共マナーを次々と主張していく。実際、村上には、こういったマナーとして持つべき慎みを導出できるような論理を組み立てたいという動機があったようだ。こういった頑固な父親のような意見は現代の多様な世代から受け入れられることは難しいかもしれない。ただし付記しておくと村上は、それを承知の上で、上の世代の頑固な意見を継承させようと試みることで、次世代の人々が取捨選択しながら自分を広げていくことを助けられるのだという信念に基づいて発言をしているようだ。  いずれにせよ「自分に対して則を課す」ことができる人物は尊敬に値する、ということは我々が広く共有できる価値観であり、この点を強調した村上は的を射ているように思われる。村上が挙げる例ではないが、毎日欠かさずにトレーニングと食事制限を続けるプロスポーツ選手は賞賛に値する、という捉え方は、多くの人が納得するところではないだろうか。

自分の生き方を通じて周囲に働きかける

 教養とはあくまで自分自身を律するものである、とする村上に対し、歴史学者阿部謹也は、『「教養」とは何か』(講談社現代新書 1997年)において、個人と社会の関係から教養について語っている。阿部は、「教養があるということは…何らかの制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことができる人のこと」「これまでの教養は個人単位であり、個人が自己の完成を願うという形になっていた。しかし「世間」の中では個人一人の完成はあり得ないのである。」としている。  教養がある人は、周囲になんらか働きかけていくのである、とする阿部の意見には共感しやすいかもしれない。教養がある人は尊敬を集めるとされるが、完全に孤独な人が尊敬を集めるということはない。尊敬を集めているためには周囲へのなんらかの影響、例えば個人の人生の方向を決定するような重要な決断の際に展望を示すとか、集団の目指すべき方向について傾聴に値する意見を言うとか、あるいはその仕事ぶりで人々を魅了するとか、そのようなことがなされているはずだからだ。この意見はノブレス・オブリージュという概念(教養人は力がある分だけ、他者に対する義務を負っているという考え方)にも親和的かもしれない。人々を良い方向へ促す力がある人は、その力を行使すべき、なのかもしれない。十分理解できる。  とはいえ、そういう阿部の規定する「教養」を持つこと、つまり他者への影響力を持つことに対して魅力を感じる人ばかりではないだろうから、すべての人が教養を持つべきである、とする傾向からは少し距離がある教養観に思われる。さらに阿部の教養観は、西洋から日本へ輸入された「西洋的自我」「近代的個人」の枠組みに限界を感じ、社会を「世間」という概念で理解したいという、現代思想系の学問的動機に基づいていて、論壇の共通認識に明るくない自分のような人間がその要点を理解することは容易ではない。

「学び」と「教養」

 両者の教養観はどちらも、知識量の多さを重視しないが、同時に、決して学問を蔑ろにしていない。村上陽一郎の言うように「揺るがない自分を造り上げる」であれ、阿部謹也の言うように「自分の生き方を通じて周囲に働きかける」であれ、生涯を通して広い視野で学び続ける姿勢はとても重要だろう。村上は、一般になされる実学(実際上役に立つ知識)・虚学(実際上あまり役に立たない知識)という分類に反対し、「自分を造り上げるために必要である、「役に立つ」という意味で、あらゆる知識活動、学問は「実学です」と主張する。阿部は 「個人は学を修め、社会の中で自分の位置を知り、その上で「世間」の中で自分の役割をもたねばならない」と書いていて「学を修める」ことへの言及を欠かさない。  目線を下げて、生涯食いつなぐことだけを考えたとしても、学びが重要である点で彼らは正しいだろう。特に若い世代ほどこの点を無視できない。ロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットンとアンドリュー・スコット著 『LIFE SHIFT』(東洋経済新報社 2016)によれば、健康寿命が100年と長寿化するこれからの時代においては、人生を教育・仕事・引退といった3ステージとする旧来のモデルは通用しなくなるという。20代までの教育によって得たスキル、知識、人的ネットワークを磨くだけではいずれ枯渇してしまい、生涯に渡って生産性を維持することができなくなるのだ。著者たちは、人生は学びと仕事のステージを何度も繰り返すマルチステージとなりつつあると語る。

 とはいえ、実際にどうやったら学び続けられるのだろうか。自分たちは何かしらやるべきことのある日々を過ごしている。大学生なら専門課程の授業や研究があるし、会社勤めなら仕事がある。プライベートでも友人や家族との時間が必要である。そんな中、よほどの動機がなければ、いつか役に立つかもしれない程度のことを学ぶ機会をそうそう作り出せるものではない。そこで私は、すでにこれらの継続的な学びを実践し、豊かな教養を身につけているセンパイ方に聞いてみたいと思う。彼らが、いかなる動機でもって、学ぶ意欲を支えているのかを。

問いを抱き続けるには?

 ここからは私自身の推測であるが、学びを続ける人物とは、それぞれ個人的な、決して簡単には解けない大きな問いや理想を抱えているのではないだろうか。学ぶ理由は決して、「教養を身に付けたいから」「いつか役に立つかもしれないから」という漠然としたものでもないし、単なる知的好奇心でもないのではないか。(知的好奇心が人より大きいとしても。) そうではなく、その大きな問いや理想に対する解答へのヒントを見出すことを動機として、学びを続けているのではないだろうか。この副産物として、教養が自ずと身につくと考えられる。その問いの解決や理想の実現は、純粋に自らの知的レベルを高めることで達成できるのかもしれないし、社会を何かしら変革させることが必要なのかもしれない。これによって獲得する教養の方向性も、村上陽一郎的なものか、阿部謹也的なものか、変わってくるのかもしれない。いずれにせよ、その教養の背後にある動機こそが知りたい。そしてその動機が、どのようにして特定の分野や個別の本などに対する知的興味へと結びついたのかを知りたい。もしかしたら背後の動機と個別の興味は、一見大きく隔たっていて、想像力がなければ結びつきを見出せないかもしれない。教養のある人は、その想像力によって、広範な知識を持つに至ったのではないかと思うのである。例えば、自分の知人には、ITの世界で革命的な製品を作りたいという野心に基づいて、美術史上の革命とされるキュビズムがどのようにして実現されたのかに興味を抱く人物がいる。誰であれ、そういった動機と、個々の本がヒントになるかもしれないという想像力の二つさえ持っていれば、センパイ方のように学び続けることができるのではないかと考えるのである。

 問いや理想は、極めて個人的なものであって、広く共感を集められるものではないのが常だと考えられる。だからこそ、誰かと断片的にであれ共有できるとしたら、それは奇跡であり大変素晴らしいことである。その場合、センパイ方が興味を持った本やテーマに、興味を持てる可能性がある。もしも何も共感できなかったとしても、何も驚くべきことはない。その場合にも、自分自身の動機を見つけたり、その解答へのヒントを見つけ出す想像力を手に入れるきっかけになるはずである。自分はこういったことを期待して、本イベントに参加する。

<イベントお申し込みはこちらから> 教えて!教養の入り口〜あのセンパイはどんな本を読んできたのか?〜

著者プロフィール
西尾 亮一(にしお りょういち)
東京大学大学院理学系研究科物理学専攻 博士(理学)
ソフトウェアエンジニア(スマートニュース株式会社)