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「教えて!教養の入り口」実行委員会

あのセンパイはどんな本を読んできたのか?

「人より不幸」すら特権の時代に、幸せに生きるための教養

 

「今の時代はね、人より不幸な境遇でさえ“特権”なんですよ。なんたってドラマがあるからね。特別に不幸なわけでもなく、特別に幸福でもない人は、ドラマを持ってる人が羨ましい。多くの人が、自分に何のドラマもないことに、自覚なくフラストレーションを抱えながら生きてるんですよ」

 

少し前に、友人の新聞記者さんがこんなことを言っていました。

なんでも、誰かが不幸な境遇を勇敢に乗り越えた話も、誰かが誰かを救った感動の物語も。瞬間的に読者の心を動かすことはあったとしても、その後に続く大きな波の最初の一石になったりするようなことは、以前に比べて圧倒的に減っていると感じるそう。そしてその原因として考えられるのが、読み手自身も無自覚な「妬み」の感情にあるのではないか、というのです。

 

インターネットとSNSによって、決して手が届かないところにいるわけでもない、ごく身近な人達のドラマティックな日常を、私たちは、いともたやすく覗き見できるようになりました。幸福であれ、不幸であれ、魅力的にパッケージされたドラマには「いいね!」がたくさん寄せられます。大人になった私たちは、日常生活の中でそう簡単に誰かから褒められたり、励まされたり、生きてるだけで無条件に喜ばれたりしないけど、SNSで見かける他人は、それらを容易に手に入れている。可視化され、数値化された承認が、ドラマを持って生きる人の存在を、より一層眩しく輝かせます。

 

最早中年以上しか覚えていないと想いますが、かつて流行語ともなった長嶋茂雄監督の造語に「メイクドラマ」なるものがありました。私たち、そんなにもドラマを求めているなら積極的にメイクしにいけばいいわけですが、やっぱり生活ってものがあるし、恥はかきたくないし、波風立てるには勇気がいります。

好きな人にたった一言「好き」と言えば。

理不尽な上司にたった一言「うるさい」と言えば。

たったそれだけの行動で、明日の自分に、今日とは全く違うドラマが展開する。ドラマの入り口というのは、実は誰の日常にも無数に用意されていて、本音では今すぐにでもその向こう側を見たいと願っていても、様々な事情でその扉を開けられない。もしくは、その扉の存在にそもそも気付けない。そういう状況は、往々にしてあります。

こうしている間にも刻々と時間は流れ、私たちは死に近づいているわけで、望む、望まないに関わらず、変化は嫌が応にも生じています。そんな不可避な変化を受け入れられるように、私たちの頭はどうしたって飽きるようにできていて、飽きをこじらせると、他人を妬んでしまうようになるのかもしれません。

 

で、そういうときにこそ、教養がいい仕事をしてくれるのだろうと私は思うんです。

前回の記事で著者のチェコ好きさんが教えてくれた「環世界」という概念は、私たちが5月11日に開催したイベント「教えて!教養の入り口〜あのセンパイはどんな本を読んできたのか?〜」の中でも、各センパイから様々な切り口で提示されました。登壇者の一人、柳瀬博一さんは、“新しい「環世界」を提示してくれるひと。それが私にとっての「教養のあるひと」なのだ”とも仰っています。センパイ達の中に教養として蓄積された知識や知恵、それらを媒介した読書体験はいずれも、他者の目から見た世界、他者の頭で考えた知恵を授けてくれたといいます。

 

お年寄り向けの恋人紹介所のポスターは、電柱の下の方に貼ってある、という話を聞いたことがありますか? これは一体なぜかというと、犬の散歩中に、犬が電柱でオシッコするタイミングで、飼い主の視界に入るからだというのです。犬の視線に立つと見えるようになる出会い系のポスター。センパイには怒られるかもしれないけれども、環世界って、つまりこういうことではないかと思うんです。

 

自分の目から見た世界に、今、決して開けることのできない扉ばかり並んでいたとしても、他人の目から世界を見てみれば、それまで見えなかっただけで、実はすぐにでも開くことのできる、新しい扉が見つかるかもしれない。八方塞がりで、息苦しく、窒息死しそうだった自分の世界に、他人の目が、新しい風穴を見つけてくれるかもしれない。

 

さまざまな視線で世界を見ることができるからこそ、自分の世界に、いつもたくさんのドラマを作り続けていられる人。決して、自分の世界を限りあるものに留めておかない人。私たちは、そういった人に教養を感じるのかもしれないな、と、そんなことを考えさせられました。

 

* * *

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改めまして、5月11日のイベントにご参加くださった皆さん、ご登壇くださったセンパイ方、ありがとうございました。定員40名のところ、結果的には50名超の方にお申し込みいただきました。

イベント冒頭では、近代の日本で「教養」という言葉がどういった意味や目的で使われてきたかを、時代背景とともに振り返り、教養マッピングとしてご紹介しました。

中盤では、ご登壇くださった3名のセンパイ(日経BPプロデューサーの柳瀬博一さん、文筆家の吉川浩満さん、スマートニュース執行役員の藤村厚夫さん)に、「読書が好きになるきっかけとなった一冊」「世界を一歩広げた一冊」「今の関心を端的に表す一冊」という三つの切り口から、それぞれの読書史をご紹介いただきました。あのセンパイ方はどんな本を読んできたのか?詳しくは、当日使用した以下のスライドをご覧ください。

 

www.slideshare.net

また終盤では、ご来場くださった参加者の方にも同じ3冊を考えていただきました。ご回答いただいた内容は、「みんなの読書史」として、改めてこのブログで公表予定です。

 

ということで、不定期開催の本イベント、今後もいろいろな切り口で続けていきたいと思いますので、どうぞお楽しみに!

  

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著者 

紫原 明子(しはら あきこ)

エッセイスト。著書『家族無計画』(朝日出版社http://amzn.to/2bD3t7t 『りこんのこども』(マガジンハウス)http://amzn.to/2bD42y8

私が「教養」を求めるのは、少し飽きっぽいからなのかもしれない。

 ユクスキュルの『生物から見た世界』(岩波文庫)という本がある。環世界の概念について書かれた本で、これ自体とても興味深いのだけれど、この本の翻訳をしたのが、動物行動学者の日髙敏隆さんだ。

 日髙さんのエッセイ『世界をこんなふうに見てごらん』(集英社文庫)には、そんな日髙さんの、幼少期のエピソードが綴られている。のちに生物学を志すだけあって、昆虫少年だったというエピソードはそれだけ聞けば確かに微笑ましい。が、カブトムシやクワガタの採集程度にとどめてくれれば可愛いものの、日髙さんは道端や公園に転がっていた犬の死骸に群がるウジや甲虫にまで興味を持ち観察していたそうで、巡回中の警官に何度も連れていかれそうになったという。しまいには見ているだけでは飽き足らなくなったのか、シデムシ科という種類の虫を飼育しようと腐った肉を用意し、汚いわ臭いわで父親に怒られたとも綴っている。子供の個性や好奇心をできる限り尊重してあげたい──とは多くの親御さんたちの願うところだろうし、私ももし自分に子供ができたらできる限りそうしてあげたいと思うが、さすがに「死骸にたかる虫を観察したいので家で飼わせてほしい」などと言われたらちょっと(だいぶ)困ってしまう。「できる限り尊重云々」などと言っていたことはすっぱり忘れて「捨てて来い!」と怒鳴り散らしてしまうかもしれない。  

 

ユクスキュルの〈環世界〉

 話はもどって、環世界の概念についてである。私はこの言葉に『暇と退屈の倫理学』という本で出会ったのだけど、環世界を知ってからというもの、この考え方をとても気に入っており、何かにつけて参照している。  

 環世界を説明するために持ち出される動物はマダニだ。マダニは〈光〉〈酢酸の匂い〉〈(動物の体温である)摂氏37度〉という3つのシグナルのみに反応して生きている。森の中の美しい植物、それらに降り注ぐ雨、夜空に輝く星──そういったものをマダニは体験できない。体験できないということは、マダニの中ではそれらは存在していないということだ。私たち人間とマダニ、あるいは他の動物とでは、体験している世界が異なる。と、いうと何だか当たり前のことを言っているみたいだけれど、マダニが体験している世界より私たち人間が体験している世界のほうが正確で正しいなどとは言えなくて、世界とはそんなふうにいくつもの異なる〈世界〉が重なりあって存在している。これが環世界の考え方だ。  

 マダニと人間では体験している世界が異なるというのはわかりやすい話だが、この環世界の考えは、人間同士の話にも適用できる。たとえば、素人にとっては何の変哲も面白味もないただの石ころでも、鉱物学者にとっては非常に面白い代物で、石ころを顕微鏡などで何時間でも観察し眺めていられるかもしれない。素人にとってはよくわからない音楽でも、ミュージシャンが聴けばその素晴らしさに感服してしまうかもしれない。この場合、素人である〈私〉と、〈鉱物学者〉と〈ミュージシャン〉は、同じものを受け取っているはずなのに体験する世界がまったく異なっている。

 こういった例は無数に思いつくことができ、そうなると、人間は誰もがその人だけの、独自の世界を生きていると考えることもできる。あの人と自分とでは、マダニと人間と同じくらいとは言えないまでも、体験している世界がまったく異なっているのである。人間が、今の自分が見ている世界だけが、絶対で正しいのではない。

教養がほしいと思うのはなぜか  

 『暇と退屈の倫理学』では、人間が退屈を感じてしまうことは人間らしさの表れでもあり、ある程度はしょうがないことだ、としている。しかしもしこの苦痛から逃れたいとするならば、そのために贅沢を取り戻し、衣食住や芸術や娯楽を楽しまなければいけない、とも言っている。  

 さきほどの例を再び出すと、今の自分のままでは、目の前に石ころを置かれてもそれはただの石ころでしかない。ただの石ころを目の前にどれだけたくさん並べられても、面白くもなんともない。しかし、鉱物学や地質学を少しでも勉強すれば、途端にただの石ころがものすごく面白く見えてきたりするかもしれない。鉱物学者と会って話をする機会が持てたら、ものすごく興味深いことが聞けて、一晩中わくわくできるかもしれない。  

 芸術や伝統芸能などのハイカルチャーはわかりやすい例だが、何かを真に「楽しむ」ためには訓練や勉強が必要な場合がある。訓練や勉強を経なければ、本当はものすごく濃密な情報が詰まっているものでも、それは何の面白味もないただの石ころに見えてしまう。石ころをボール代わりに蹴ったりしていれば少しの時間は遊べるかもしれないが、やはりそんなのではすぐに飽きてしまうだろう。  

 私が教養に興味を持つのは、非常に俗な理由だが、少々飽きっぽいからなのかもしれない。今の自分に見える世界にすぐに飽きて退屈してしまい、世界をもっと別の見方で捉え直したいと常に考えている。(さすがにそこまでしたいとは思わないが、例として)不快としか思えななかった動物の死骸や屍肉に群がる虫を、何かを学ぶことによって興味深い・面白いと感じられるようになったら、きっと新しい世界を獲得できると思うのだ。  

 そのために、自分自身で興味のある分野を開拓していくのも悪くはないが、自分の考えつくことなんて限界がある。世界をもっと別の見方で捉えるためには、様々な分野に詳しい友人やセンパイが必要なのだ。もっと別の視点を、新しい世界を獲得するためにはどうすればいいのか。退屈しやすい怠惰な人間である私は、そんなことを念頭に置きつつ、センパイ方の話を聞いてみたいと思う。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 

著者プロフィール

チェコ好き 

ブログ「(チェコ好き)の日記」で旅・読書・アートについて書いている、硬派な文化系ブロガー。芸術系大学院卒、専門はシュルレアリスムと1960年代のチェコ映画。なお、今まで旅行したなかでもっとも好きだった国は、チェコではなくイタリアらしい。 Twitter@aniram_czech

 

 ※イベント残席残りわずかです。お申し込みはお早めに。

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知的好奇心だけでは、教養豊かな人にはなれない?

※本ブログでは、5/11(木)開催イベント教えて!教養の入り口〜あのセンパイはどんな本を読んできたのか?〜に関連するコラムを不定期連載していきます。

 

 なぜ今、私たちは「教養」を切り口にイベントを開催するのか。登壇者の一人である吉川浩満氏を加えて、「教えて!教養の入り口」実行委員会メンバーで、「教養」についての座談会を開いてみました。今日はその一部をご紹介します。

 

【参加者】

吉川浩満(よしかわ ひろみつ):文筆家。5/11開催イベントゲスト。
井口・紫原・杉山・西尾:「教えて!教養の入り口」実行委員会。

 

教養=知的好奇心ではないのでは……?

井口:「教養がある人」というと、学び続けられる人、知的好奇心が旺盛な人、というイメージがありますよね。でも知的好奇心って誰でも持っているものではないから、人によっては、知的好奇心が持てないことへのコンプレックスもあったりもするんじゃないですか。

杉山:私自身は、コンプレックスはあれど、知識量を増やしていくということにはあまり興味がわかないです。すごく狭い範囲の物事でも、満足してしまう。でもきっと、教養がある人って、「教養を身につけよう!」と思って、いろんなことを調べたりするわけじゃなさそうですよね。

西尾:前回のコラムで自分は、学び続けるために必要なのは好奇心だけではないのでは、という話を書きました。学びを続ける人物とは、それぞれ個人的な、決して簡単には解けない大きな問いや理想を抱えているのではないかと。学ぶ理由は決して、「教養を身に付けたいから」「いつか役に立つかもしれないから」という漠然としたものではないですよね。

紫原:つまり、大きな問いと好奇心、両輪あることによって学び続けられるということかな。

西尾:たまたま人より多くの知的好奇心を持っていたので教養豊かになれました、という結論は何かずるい気がするんです。そういうストーリーは嘘っぽい!

杉山:知的好奇心が旺盛だから教養が豊かになれるという話にしてしまうと、好奇心を持てない人はどうしたらいいのかという疑問が残ってしまいますもんね。好奇心を持つ入り口が見つからないというか……。

 

教養とは不法侵入によって得られるもの?


吉川:たしかに、人は、湧き上がる好奇心からものを考えたりするわけではないんでしょうね。多くの場合は、仕方なくというか……。交通事故みたいな感じで。哲学者のジル・ドゥルーズはそのことを、「不法侵入」と言っているのですが。

井口:残業がすごく多かったから労働基準法について調べざるを得なかった、みたいなことですよね。

吉川:そうそう。もちろん知的好奇心が旺盛な人というのはいるし、それはいいことだと思うんだけど、私の実感からすると、「せざるを得ない」という感じのほうが強いんですよね。

紫原:ということは、不法侵入を許す鍵をいつも開けておかなければいけないということですね。隙を作るというか……?

井口:自分は、普段あまり接する機会がない人に誘われたら、その集まりにはなるべく行くようにしています。こういう姿勢も、不法侵入を許す、隙を作るということになりますかね?

 

先生はえらい!

 

井口:ところで、教養ある人って、自分で自分は教養あると思ってるんですか?(笑)

吉川:それは定義にもよると思うんですが(笑)、知識量の話でいくと、当たり前ですが年長者が絶対に有利ですよね。だって、20歳の人と40歳の人だったら、単純に40歳のほうが人生経験とか、読んでいる本の数とかが豊富なわけだから。

紫原:知識の量だけが教養、という話にはしたくないよね。

井口:定義のことを考えると、教養とは、発信者にあるのではなく受信者の問題なのかとも思うんですよ。発信する側が「これは教養である!」という態度で発言をするのっておこがましいじゃないですか。発信者が何気なく言った発言を、受信者が「これは教養だ!」と受け止めて、初めてそこに教養が生まれるような気もします。

吉川:誰もが認める教養人みたいなのは存在しないかもしれないけれど、「この人は圧倒的だ!」と思うような人はいますよね。たとえば師弟関係のようなもので、先生をずっと越えられないみたいな。先生に圧倒されてきた、という経験。

たとえば内田樹さんの『先生はえらい』という本があります。この人は教養がある、だから発言に価値があると考えるのではなく、先生の発言はすべてが圧倒的でしょぼくない、と考える。知識の非対称性に圧倒されるような体験です。

井口:さきほどの話とつなげると、先生からの不法侵入は無条件に許すということですよね。先生からの発言には、常にドアを開いておくと。

杉山:みんな、そういう先生ってどこでどうやって見つけていくんでしょう? 日常生活の中で、賢いと思う人はたくさんいるけれど、常に不法侵入のドアを開けておけるような圧倒的な存在がいるという人は少数派ではないですか?

吉川:内田樹さんはそもそも武道の人で、哲学者のレヴィナスについてずっと勉強していた人でもあるし、師弟関係的な知というものにものすごく組み込まれている人なんですよね。
だから、我々みたいな立場とはちょっと違うところにいる人ではあるのかもしれません。

 

 

”男性”の教養、”女性”の教養

 

紫原:あらためて、教養をどんなものと定義するか、どう身につけていくかは、立場や考え方によって様々ですね。定義だけで言えば、社会の情勢や時代の空気によっても変化しているでしょうし。

吉川:そう。もっとに言えば、歴史を振り返ると男と女でも、必要とされてきた教養が異なっていたんですよ。

紫原:というと?

吉川:『夢見る教養』(小平麻衣子著・河出ブックス)という本に詳しく書かれていますが、女性に必要とされる教養は、学問的な知識でなく、お茶やお花、着付けや料理といった時代が長くありました。いわば花嫁修行です。ここには男性の教養の延長にあるような社会的な着地点がない。

西尾:つまり、女性に求められていた教養は、裏を返せば、女性を家庭の中で飼い殺すための装置として機能していた、ということですか。

吉川:本の中ではそういったことが示唆されていますね。

紫原:社会通念上、漠然とよしとされる価値観の裏にも、思わぬ落とし穴があるんですね。

吉川:ええ。だからこそ、今自分は何のために、どんな教養を欲しているのか。自分だけの答えを考えてみる、ということは必要かもしれませんね。

 

まとめ

 

高い教養を身につけられた人は、単に知的好奇心が旺盛だったのではなく、人生の中で切実な問題に突き当たりさまざまなことを止むを得ず調べなければならなかった人、何もかも敵わないような圧倒的な先生に出会えた人なのではないか、という話が出ました。また、ジル・ドゥルーズの「不法侵入」という概念も、教養を語る上で重要なのではないかと私たちは考えます。教養は発信側には存在せず、受信側にしかないという話題も、参加されるみなさんにぜひ考えてみてほしい視点です。

教養豊かな人、というのは確かにいます。だけど、教養ってそもそも何だろうという話になると、なんだか捉えどころのない話に……当日はそんなことも頭に入れつつ、センパイたちに教養や読書のことを聞いてみることにしましょう!

 

 <本座談会にもご参加いただいた、5/11イベントゲスト、吉川浩満さん編集協力の雑誌『atプラス』は好評発売中です>

atプラス32(吉川浩満編集協力)

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著者プロフィール

チェコ好き 

ブログ「(チェコ好き)の日記」で旅・読書・アートについて書いている、硬派な文化系ブロガー。芸術系大学院卒、専門はシュルレアリスムと1960年代のチェコ映画。なお、今まで旅行したなかでもっとも好きだった国は、チェコではなくイタリアらしい。 Twitter@aniram_czech

 

 ※イベント残席残りわずかです。お申し込みはお早めに。

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教えて!センパイ。100年学び続けるための動機はどこに?

※本ブログでは、5/11(木)開催イベント教えて!教養の入り口〜あのセンパイはどんな本を読んできたのか?〜に関連するコラムを不定期連載していきます。



 すべての人は「教養」をもつべきである、と言われる。

例えば文部科学省中央教育審議会(2002年)の資料では「人には,その成長段階ごとに身に付けなければならない教養がある。」とされている。(http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/020203/020203a.htm) 「教養」をもっている人は、物質的にはともかく精神的には豊かであるとされる。また人から尊敬を集めるとされる。

 しかし一体、「教養」とはなんだろうか。これは繰り返し問われている問いであり、すでの多くの知識人から様々な回答が提出されている。通俗的には、単に知識を持っているという意味で使われることもあるが、多くの論者がそれでは不十分であるとしている。また、大学の教養課程というときの「教養」は、専門分野を修める前に身に付けておくべきとされる学問全般の知識(英語でいうとリベラルアーツ)というもので、ここで問われている「教養」よりもずっと狭い意味のものであるようだ。

では「教養」とはどのようなものであると、最近の知識人は定めているのだろうか。ここでは書店で手に入りやすい、2冊の文庫本の回答を紹介しよう。

自分に対して則(のり)を課す

 科学史家・科学哲学者の村上陽一郎は、『あらためて教養とは』(新潮文庫 2009年)において、教養の決定的に大きな要素を、「揺るがない自分を造り上げる」「自分に対して則(のり)を課し、その則の下で行動できるだけの力をつける」ということを可能にするものであるとし、知識や経験がなくとも持つことのできる、この意味での教養の重要性を説いている。  村上は、この教養観を主に「倫理的な、人間としての振舞い方の領域」に適用させて、電車の中でマンガを読んだり化粧をしたりするのは慎むべきである、といった具体的な公共マナーを次々と主張していく。実際、村上には、こういったマナーとして持つべき慎みを導出できるような論理を組み立てたいという動機があったようだ。こういった頑固な父親のような意見は現代の多様な世代から受け入れられることは難しいかもしれない。ただし付記しておくと村上は、それを承知の上で、上の世代の頑固な意見を継承させようと試みることで、次世代の人々が取捨選択しながら自分を広げていくことを助けられるのだという信念に基づいて発言をしているようだ。  いずれにせよ「自分に対して則を課す」ことができる人物は尊敬に値する、ということは我々が広く共有できる価値観であり、この点を強調した村上は的を射ているように思われる。村上が挙げる例ではないが、毎日欠かさずにトレーニングと食事制限を続けるプロスポーツ選手は賞賛に値する、という捉え方は、多くの人が納得するところではないだろうか。

自分の生き方を通じて周囲に働きかける

 教養とはあくまで自分自身を律するものである、とする村上に対し、歴史学者阿部謹也は、『「教養」とは何か』(講談社現代新書 1997年)において、個人と社会の関係から教養について語っている。阿部は、「教養があるということは…何らかの制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことができる人のこと」「これまでの教養は個人単位であり、個人が自己の完成を願うという形になっていた。しかし「世間」の中では個人一人の完成はあり得ないのである。」としている。  教養がある人は、周囲になんらか働きかけていくのである、とする阿部の意見には共感しやすいかもしれない。教養がある人は尊敬を集めるとされるが、完全に孤独な人が尊敬を集めるということはない。尊敬を集めているためには周囲へのなんらかの影響、例えば個人の人生の方向を決定するような重要な決断の際に展望を示すとか、集団の目指すべき方向について傾聴に値する意見を言うとか、あるいはその仕事ぶりで人々を魅了するとか、そのようなことがなされているはずだからだ。この意見はノブレス・オブリージュという概念(教養人は力がある分だけ、他者に対する義務を負っているという考え方)にも親和的かもしれない。人々を良い方向へ促す力がある人は、その力を行使すべき、なのかもしれない。十分理解できる。  とはいえ、そういう阿部の規定する「教養」を持つこと、つまり他者への影響力を持つことに対して魅力を感じる人ばかりではないだろうから、すべての人が教養を持つべきである、とする傾向からは少し距離がある教養観に思われる。さらに阿部の教養観は、西洋から日本へ輸入された「西洋的自我」「近代的個人」の枠組みに限界を感じ、社会を「世間」という概念で理解したいという、現代思想系の学問的動機に基づいていて、論壇の共通認識に明るくない自分のような人間がその要点を理解することは容易ではない。

「学び」と「教養」

 両者の教養観はどちらも、知識量の多さを重視しないが、同時に、決して学問を蔑ろにしていない。村上陽一郎の言うように「揺るがない自分を造り上げる」であれ、阿部謹也の言うように「自分の生き方を通じて周囲に働きかける」であれ、生涯を通して広い視野で学び続ける姿勢はとても重要だろう。村上は、一般になされる実学(実際上役に立つ知識)・虚学(実際上あまり役に立たない知識)という分類に反対し、「自分を造り上げるために必要である、「役に立つ」という意味で、あらゆる知識活動、学問は「実学です」と主張する。阿部は 「個人は学を修め、社会の中で自分の位置を知り、その上で「世間」の中で自分の役割をもたねばならない」と書いていて「学を修める」ことへの言及を欠かさない。  目線を下げて、生涯食いつなぐことだけを考えたとしても、学びが重要である点で彼らは正しいだろう。特に若い世代ほどこの点を無視できない。ロンドン・ビジネススクール教授のリンダ・グラットンとアンドリュー・スコット著 『LIFE SHIFT』(東洋経済新報社 2016)によれば、健康寿命が100年と長寿化するこれからの時代においては、人生を教育・仕事・引退といった3ステージとする旧来のモデルは通用しなくなるという。20代までの教育によって得たスキル、知識、人的ネットワークを磨くだけではいずれ枯渇してしまい、生涯に渡って生産性を維持することができなくなるのだ。著者たちは、人生は学びと仕事のステージを何度も繰り返すマルチステージとなりつつあると語る。

 とはいえ、実際にどうやったら学び続けられるのだろうか。自分たちは何かしらやるべきことのある日々を過ごしている。大学生なら専門課程の授業や研究があるし、会社勤めなら仕事がある。プライベートでも友人や家族との時間が必要である。そんな中、よほどの動機がなければ、いつか役に立つかもしれない程度のことを学ぶ機会をそうそう作り出せるものではない。そこで私は、すでにこれらの継続的な学びを実践し、豊かな教養を身につけているセンパイ方に聞いてみたいと思う。彼らが、いかなる動機でもって、学ぶ意欲を支えているのかを。

問いを抱き続けるには?

 ここからは私自身の推測であるが、学びを続ける人物とは、それぞれ個人的な、決して簡単には解けない大きな問いや理想を抱えているのではないだろうか。学ぶ理由は決して、「教養を身に付けたいから」「いつか役に立つかもしれないから」という漠然としたものでもないし、単なる知的好奇心でもないのではないか。(知的好奇心が人より大きいとしても。) そうではなく、その大きな問いや理想に対する解答へのヒントを見出すことを動機として、学びを続けているのではないだろうか。この副産物として、教養が自ずと身につくと考えられる。その問いの解決や理想の実現は、純粋に自らの知的レベルを高めることで達成できるのかもしれないし、社会を何かしら変革させることが必要なのかもしれない。これによって獲得する教養の方向性も、村上陽一郎的なものか、阿部謹也的なものか、変わってくるのかもしれない。いずれにせよ、その教養の背後にある動機こそが知りたい。そしてその動機が、どのようにして特定の分野や個別の本などに対する知的興味へと結びついたのかを知りたい。もしかしたら背後の動機と個別の興味は、一見大きく隔たっていて、想像力がなければ結びつきを見出せないかもしれない。教養のある人は、その想像力によって、広範な知識を持つに至ったのではないかと思うのである。例えば、自分の知人には、ITの世界で革命的な製品を作りたいという野心に基づいて、美術史上の革命とされるキュビズムがどのようにして実現されたのかに興味を抱く人物がいる。誰であれ、そういった動機と、個々の本がヒントになるかもしれないという想像力の二つさえ持っていれば、センパイ方のように学び続けることができるのではないかと考えるのである。

 問いや理想は、極めて個人的なものであって、広く共感を集められるものではないのが常だと考えられる。だからこそ、誰かと断片的にであれ共有できるとしたら、それは奇跡であり大変素晴らしいことである。その場合、センパイ方が興味を持った本やテーマに、興味を持てる可能性がある。もしも何も共感できなかったとしても、何も驚くべきことはない。その場合にも、自分自身の動機を見つけたり、その解答へのヒントを見つけ出す想像力を手に入れるきっかけになるはずである。自分はこういったことを期待して、本イベントに参加する。

<イベントお申し込みはこちらから> 教えて!教養の入り口〜あのセンパイはどんな本を読んできたのか?〜

著者プロフィール
西尾 亮一(にしお りょういち)
東京大学大学院理学系研究科物理学専攻 博士(理学)
ソフトウェアエンジニア(スマートニュース株式会社)